公文の理念
われわれは、個々の人間に与えられている可能性を発見し、
その能力を最大限に伸ばすことにより、
健全にして有能な人材の育成をはかり、社会に貢献する。
人間の可能性とは?
人間はだれでも、はかり知ることのできない可能性をもっています。そして人間の歴史は、可能性探求の歴史であるということができます。
たとえば、人間が空を飛ぶということは、100年前までは夢であり、宇宙旅行ができるということも、20数年前までは夢物語にすぎませんでした。科学の分野だけでなく、スポーツや芸術の面でも同じことがいえます。人間がいつ、100メートルを10秒以内で走れるようになるかは、50年前にはまだだれも予測できませんでした。しかし、これらのことは現代においては、ごくあたりまえになっています。また音楽でいえば、たとえば50年前には、難曲として有名なヴァイオリン曲「チゴイネルワイゼン」(サラサーテ作曲)をひける人間は、日本にわずか数人しかいなかったといわれます。しかし今では、小学生がらくらくとこの曲をひいているのです。
みずからの可能性を極限まで追求することは、人間に与えられた尊い使命であり、可能性の追求が人間の進歩、世界の発展につながります。公文の歴史は、まさに人間の可能性をどこまでも追求しようとする歴史でありました。私たちの使命は、個人別、学力別の自学自習という学習法を通して、子どもの可能性を最大限に追求することにあります。
子どもがどこまで伸びる可能性をもっているかは、だれもわかりません。広辞苑の定義を借りるなら、「あることが実現される条件がそれを妨げる条件よりも優勢である」かどうかということさえ明確にされていないのが教育学および教育技術の現状なのです。だから私たちは、理論でなく学習指導という実践を通して子どもの可能性をどこまでも追求し、その記録を『進度一覧表』としてたえず更新していくのです。
たとえば、人間が空を飛ぶということは、100年前までは夢であり、宇宙旅行ができるということも、20数年前までは夢物語にすぎませんでした。科学の分野だけでなく、スポーツや芸術の面でも同じことがいえます。人間がいつ、100メートルを10秒以内で走れるようになるかは、50年前にはまだだれも予測できませんでした。しかし、これらのことは現代においては、ごくあたりまえになっています。また音楽でいえば、たとえば50年前には、難曲として有名なヴァイオリン曲「チゴイネルワイゼン」(サラサーテ作曲)をひける人間は、日本にわずか数人しかいなかったといわれます。しかし今では、小学生がらくらくとこの曲をひいているのです。
みずからの可能性を極限まで追求することは、人間に与えられた尊い使命であり、可能性の追求が人間の進歩、世界の発展につながります。公文の歴史は、まさに人間の可能性をどこまでも追求しようとする歴史でありました。私たちの使命は、個人別、学力別の自学自習という学習法を通して、子どもの可能性を最大限に追求することにあります。
子どもがどこまで伸びる可能性をもっているかは、だれもわかりません。広辞苑の定義を借りるなら、「あることが実現される条件がそれを妨げる条件よりも優勢である」かどうかということさえ明確にされていないのが教育学および教育技術の現状なのです。だから私たちは、理論でなく学習指導という実践を通して子どもの可能性をどこまでも追求し、その記録を『進度一覧表』としてたえず更新していくのです。
やってみることだ。
(公文会長)
子どもの可能性を発見しようとする試みはいろいろあります。たとえば知能テスト、学力テストの類がそれです。また医学的な検査によっても、子どもの可能性の一面がある程度把握できるとされています。子どもの可能性を決定するのは素質(遺伝)か環境かという研究や議論も数多く行われてきました。しかし、子どもの可能性を発見する科学としてのこれらの方法は、まだまだ未熟であり、さらに研究、開発の必要が残されていると思われます。
いずれにせよ、子どもの能力の検査や測定は、その子の能力を伸ばすために必要なものであって、検査の結果や測定の数値そのものに最終的な目標があるのではありません。目標はあくまで「子どもの能力を伸ばす」ことにあるのです。したがって、子どものある時期の能力を、一時的、静止的にとらえることよりも、子どもの伸びていく状態を、継続的、動的にとらえていくことが大切になってきます。
イソップ物語の作者イソップについて、こんな伝説があるそうです。
ある旅人がイソップに、ここからアクロポリスまでいくのに何時間かかるかとたずねたところ、イソップはただひとこと、「歩いてごらんなさい」と言いました。旅人が何度きいても、イソップは「歩いてごらんなさい」と答えるだけです。すっかり腹を立てた旅人は、だまってすたすた歩き始めました。そのとたんにイソップは、「ああ、その歩き方なら1時間で着けるでしょう」と言ったということです。
この話は、可能性の発見ということに関して貴重なことを教えてくれます。すなわち、静止したままの状態では、可能性を予測することは非常にむずかしい。動いていく状態を見ることによって初めて、可能性をつかむことが容易になるということです。イソップは、旅人が歩き始めた状態を見て、1時間で着けるだろうと予測しました。しかしその旅人は、途中で疲れて腰を下ろしたり、のろのろ歩いたりしたかもしれません。あるいは逆に、少しでも早く着こうとして、途中から足を速めたのかもわかりません。そこで、アクロポリスに着くまでの全コースにわたり、なるべく多くの人物について歩き方の事例を追跡調査すれば、可能性の予測はより正確になり、同時に新しい可能性への展望も開けてくることでしょう。
私たちが、ひとりでも多くの子どもに公文式を学習させようとしているのは、まさにそのためです。可能性の発見は、可能性に挑戦することによって初めて可能となるのです。 したがって、学年別指導、集団学習の行われる学校教育においては、ひとりひとりの学力が最大限に伸ばされることはほとんど期待できません。人間はもともと、ひとりひとりちがった素質、能力をもっており、学力の伸び方もひとりひとりちがっているものです。ひとりひとりの学力を最大限に伸ばすためには、たえず個人間の差異をできるかぎり厳密に見わけながら指導することが不可欠です。
学年別の教育は、さらに大きな問題点をもっています。それは、指導を子ども(個人)に合わせるのではなく、子どもを学校に合わせようとするところから生じています。
※公文の理念は当時(約25年前)のものを掲載しています。
いずれにせよ、子どもの能力の検査や測定は、その子の能力を伸ばすために必要なものであって、検査の結果や測定の数値そのものに最終的な目標があるのではありません。目標はあくまで「子どもの能力を伸ばす」ことにあるのです。したがって、子どものある時期の能力を、一時的、静止的にとらえることよりも、子どもの伸びていく状態を、継続的、動的にとらえていくことが大切になってきます。
イソップ物語の作者イソップについて、こんな伝説があるそうです。
ある旅人がイソップに、ここからアクロポリスまでいくのに何時間かかるかとたずねたところ、イソップはただひとこと、「歩いてごらんなさい」と言いました。旅人が何度きいても、イソップは「歩いてごらんなさい」と答えるだけです。すっかり腹を立てた旅人は、だまってすたすた歩き始めました。そのとたんにイソップは、「ああ、その歩き方なら1時間で着けるでしょう」と言ったということです。
この話は、可能性の発見ということに関して貴重なことを教えてくれます。すなわち、静止したままの状態では、可能性を予測することは非常にむずかしい。動いていく状態を見ることによって初めて、可能性をつかむことが容易になるということです。イソップは、旅人が歩き始めた状態を見て、1時間で着けるだろうと予測しました。しかしその旅人は、途中で疲れて腰を下ろしたり、のろのろ歩いたりしたかもしれません。あるいは逆に、少しでも早く着こうとして、途中から足を速めたのかもわかりません。そこで、アクロポリスに着くまでの全コースにわたり、なるべく多くの人物について歩き方の事例を追跡調査すれば、可能性の予測はより正確になり、同時に新しい可能性への展望も開けてくることでしょう。
私たちが、ひとりでも多くの子どもに公文式を学習させようとしているのは、まさにそのためです。可能性の発見は、可能性に挑戦することによって初めて可能となるのです。
能力を最大限に伸ばすとは?
公文式はひとりの子どもの能力を、その子の学年とは関係なく、伸びるところまで伸ばすことをめざします。「玉みがかざれば光なし」と言います。能力を最大限に伸ばすということは、その子に与えられている可能性を最大限に伸ばすということであり、その子の人間的価値を可能な限り高めることにもなります。そしてこのことが、まさに公文式の使命なのです。>
学校教育では学年ごとの到達目標が定められていて、学力がそこまで到達すれば教育(学習)の目的はひとまず達せられたと見なされます。そして学力に余裕のある子どもであっても、そこから先へ進ませるような指導はほとんど行われません。すなわち、子どもの素質や可能性を一定のレベルにまでひき上げさえすれば、そこから先は放置するというのが一般の学校教育、とくに公教育のあり方です。しかし「一定のレベル」とは文部省が定めている基準であって、子どもの可能性の実態や教育現場の問題点が十分に反映されたものとはいえません。
したがって、学年別指導、集団学習の行われる学校教育においては、ひとりひとりの学力が最大限に伸ばされることはほとんど期待できません。人間はもともと、ひとりひとりちがった素質、能力をもっており、学力の伸び方もひとりひとりちがっているものです。ひとりひとりの学力を最大限に伸ばすためには、たえず個人間の差異をできるかぎり厳密に見わけながら指導することが不可欠です。
学年別の教育は、さらに大きな問題点をもっています。それは、指導を子ども(個人)に合わせるのではなく、子どもを学校に合わせようとするところから生じています。
戦時中、日本の軍隊では次のようなことがまかり通っていました。兵士に支給される靴が小さくて、足に入りにくかったり、逆に大きすぎてどうしようもないことがあります。そんなとき兵士が上官に、「この靴は、自分の足に合いません」と言うと、上官は大声でこうどなったものです。「ばか者!きさまの足を靴に合わせろ!」
学力別ではなく学年別の指導をする学校教育こそ、まさに「足を靴に合わせる」やり方といえます。学校教育や進学制度に歩調を合わせている一般の学習塾や進学教室もこれと同様です。公文式はそうではなく、「足(子ども)に靴(教材、指導法)を合わせる」教育をするのです。それこそが、ひとりひとりの人間を尊重する教育であり、能力を最大限に伸ばすことのできる教育だからです。
健全で有能な人材の育成
子どもの能力を伸ばすことについて、反対をとなえる人はほとんどいません。ところが「知育偏重の教育は弊害を生む」とか、「学力よりも人格教育を優先することが大切だ」などと言う人はかなりいます。とくに幼児教育に関しては、「情操教育こそが重要であって、いたずらに知的教育など行わないことが望ましい」ととなえる人が今でも多くいるようです。
しかし、知的教育を除外して「人格教育」や「情操教育」だけが可能でしょうか。言葉もろくにできない幼児に、どの程度の「情操教育」ができるのでしょうか。また、たし算もあやふやな子に、計算力をつけてやることよりも優先してどんな「人格教育」をしてやれというのでしょうか。私たちは子どもの現実を無視した教育論をもてあそぶべきではありません。
私たちの使命は、とにかく子どもたちに少しでも高い学力をつけてやることにあります。
子どもたちは、個人別、学力別の方法で学力をつけていく過程を通して、初めて人格的、情操的な面でも向上していくものです。公文式のあらゆる指導例がその事実を物語っております。逆に、「人格教育」「情操教育」と称するものさえ行えば、健全で有能な人材に育っていくなどということはまず考えられません。
学力が高まるにつれて人格的、情操的な面でも向上していく子どもが圧倒的に多いのはなぜでしょうか。それは、学力がつくと、ゆとりが生じるからです。学力が低い子どもは、自分のことさえきちんとできず、学習に興味がもてず、集中力もありません。ところが、学力がだんだん向上してくるにつれて、勉強がおもしろくなり、やる気が出てきます。学習という知的な作業に集中してとり組み、より高い目標をめざそうとする意欲が生じると、人間の態度は変わってくるものです。落ちつきがなかったり、人のじゃまをしたり、友だちや下級生をいじめたりしていた子どもも、学力が高まるにつれて態度が落ちつき、行動が安定してきます。そして、さらに高い学力がつけば、ゆとりが生じ、友だちや下級生のめんどうを見たり、親切に教えてやったりするようになるのが一般的です。
私たちが育てようとする人間は、まず学力を高めることによって健全、有能な人材となり、さらに自分から学びつづけながらどこまでも伸びていき、世のため人のために尽くすことのできる人材です。
私たちは学校教育の下請けをしようとするのではありません。学校をこえて、たえず自分の力で伸びていく人材を育てようとしているのです。現代の社会はあらゆる面において急速な進歩をとげています。学校だけに頼るくせがついてしまった人間は「卒業即失学」の状態となり、自分を伸ばしていくことができないばかりか、世の中の進歩について行くことができなくなり、ついには社会の
「お荷物」になり果ててしまうでしょう。
私たちは学校教育の下請けをしようとするのではありません。学校をこえて、たえず自分の力で伸びていく人材を育てようとしているのです。現代の社会はあらゆる面において急速な進歩をとげています。学校だけに頼るくせがついてしまった人間は「卒業即失学」の状態となり、自分を伸ばしていくことができないばかりか、世の中の進歩について行くことができなくなり、ついには社会の
「お荷物」になり果ててしまうでしょう。
健全で有能な人材の育成こそ、私たちが困難な時代を乗り切っていくために不可欠なことであり、そのような教育活動にたずさわることが私たちの生きがいであり希望でもあります。
お読み頂きありがとうございます\(^o^)/
Sponsor links