♥清水聡 ボクシング♥

“非体育会系”ボクサーの強さの秘密は「異質」 清水 聡

“非体育会系”ボクサーの強さの秘密は「異質」 清水 聡


 
 
みなさま
 
こんにちは
 
今日は自衛隊体育学校のWebサイト
『迷彩服を着たアスリート』より興味深い記事を見つけたのでご覧下さいませ
(かなり長いので頑張って完読してみてね)
 

 
 日本ボクシング史上44年ぶりのメダルを確定させた清水 聡。だが、清水という選手は決してボクサーらしさを持たない、ボクシングというカルチャーには異質な存在だ。清水は異質だからこそ快挙を成し遂げられたと言えるのかもしれない。清水の出身校である関西高校はスポーツでも有名だが、国立大学や名門私大に数多く合格させている進学校でもある。清水はこの高校にスポーツ推薦ではなく、普通に受験して合格した。当時の清水の偏差値は高かった。高校に入ってからボクシング部に入部するが、体育会系な上下関係になじめず、一時ボクシングを辞めてしまう。高校2年で再びボクシングを再開するが、その時は先輩たちも何故か退部していて、2年生にしてキャプテンになる。上下関係もなく清水のやりたい様にできる環境、そこから清水のボクシングでの歴史が始まる。高校時代に国体で準優勝し、駒沢大学に進学。2007年の全日本選手権で優勝し、翌年のオリンピック予選となるアジア選手権で準優勝し、北京オリンピック代表になる。そして、2009年に自衛隊体育学校へ入隊。絵に描いたようなアスリート人生だが、清水の“非体育会”気質が消えた訳ではない。
 自衛隊体育学校へ入隊した清水は、以前の様に気合いと根性とは無縁の世界で生きていた。練習でも、他の後輩選手と比べてもオリンピック選手の凄さは見られない。決してマイペースを崩さない選手だ。清水にとって最も重要なことは感覚だった。特にパンチを繰り出す時のバランス感覚。この感覚が100%の時、清水の強さは倍加する。清水は、テクニックやパワーやスタミナよりもこの感覚を大事にする。だが、その感覚は本人にしか分からず、監督やコーチの指導陣には伺い知ることができないものだった。したがて、清水への指導は大変だ。清水の何が調子良くて何が調子悪いのか分からない。しかも清水は案外頑固なところがあって、自分で納得しなければ聞き入れない。清水の最良の指導方法は清水のしたい様にやらせ、所々、清水がいやがらない範囲で負荷をかけて行くというものだった。体育学校の所属選手の中には小原日登美や米満達弘といった完全フルサポートで強くなっていった選手もいるが、清水は逆だった。サポートしようとしても受け付けない、清水は伸び伸びと練習できる環境を与えれば強くなる選手だった。しかし、自由に練習できる環境を与えることができるのは、強い選手に限られる。不完全な選手に自由にできる環境を与えても困惑するだけだ。清水は体育学校という自分の思い通りに練習できる環境を与えられて、体育学校でも実績を積み重ねて行く。2009年の全日本選手権で優勝し、翌年にはアジア大会に出場。輝かしい戦歴だったが、清水には何かが不足していた。何が不足しているのか、周りの者には分からなかった。だが、清水には分かっていた。清水が自分のボクシングの理想型は大学1年の時に到達した2軸重心同時打撃だった。これは、片方の腕ではなく、両腕で、アウトから相手にプレッシャーを与え続け、相手に攻撃の暇を与えないで徹底的に連打するというもので、それを清水は自分のボクシングの理想とした。だが、大学1年以降、その攻撃の形がどうしても再現できない。その原因を清水は、バランスの崩れによるものだと分析していた。何故バランスが失われたのか、清水は大学時代の右肩脱臼によるものだと考えていた。自衛隊体育学校に入隊間もない頃、再び脱臼した。脱臼は簡単に治ったものの清水は2010年1月思い切って肩の手術を行う。手術は上手くいき、後遺症もなく、5月には練習を再開し、8月のアジア大会選考会では、当時大学ナンバー1の成松大介(現体育学校ボクシング選手)をいとも簡単に圧倒した。だが、清水はそれでも、自分の理想のボクシングにはほど遠いものと考えていた。大学1年生以降、理想のボクシングの形に戻ったのは一瞬で、北京オリンピックの時だった。ある日突然、自分のボクシングを行いうるバランスを取り戻した。だが、この感覚も、北京オリンピックの終了とともに自分のそばから逃げる様に消えて行ったと言う。2軸重心同時打撃ができないと清水が弱いかというとそうではない。清水には必殺のボディーへのアッパーとフックがある。ただ、ボディーへの攻撃はローブローとみなされ反則となる危険性があり、ポイントにはなりにくい。だが、破壊力は凄まじい。このボディーへのパンチで、どんな強豪もダメージを受け動きが止まる。このボディーへの効果的なアッパーやフックを撃つためには、アウトボクシングの清水が、間合いをつめる機会を作らねばならない。清水の長いリーチを嫌って相手が内側に入ろうとしてくれれば自然とそのチャンスは生まれるが、清水はリーチの長いボクサーだ。リーチが長いという事は、射程距離は長いものの、速射には向かない。コンビネーションに長けた外国人選手に当たると、インに入った瞬間に、清水が一発放つ瞬間に多くの被弾を受ける。そのために、清水の理想とする2軸重心同時打撃の攻撃が不可欠なのだ。つまり、2軸の連打により、相手に打たせる隙を与えず、少しずつ間合いをつめて行き、威力十分の短射程のボディーへのアッパーやフックを放ち、相手の動きを止め、ポイントになりやすいストレートを連打
し得点を稼ぐ。清水は自衛隊の訓練経験は少ないものの、本能と感覚で「対戦車戦闘」の達人を目指した。
 だが、自分の攻撃パターンへ持ち込むための2軸重心同時打撃がどうしてもできない時期があった。特に2011年は重症だった。2011年7月にインドネシアで行われたプレジデントカップでは、同僚の須佐勝明や、川内将嗣、鈴木康弘が軒並みメダルを取る中、1回戦で敗退。全く清水の良い所が出ていなかった。さらにオリンピック出場権がかかった世界選手権では、1回戦アフガニスタンの選手に勝ったものの、2回戦ではイタリアの選手に敗退。自分の力が発揮できないでいた。さらに、その翌月に行われた全日本選手権で日本人相手にまさかの準決勝敗退となる。ロースターターの清水にとって課題の1ラウンドであったとはいえ、1ラウンドで相手にリード許し、そのままずるずると挽回できないまま敗れる。清水自身は第2・第3ラウンドは手数でも相手を上回っているものと思っていたが、結果は19対24。清水にとっては屈辱の結果となる。その後も、清水の調子は良くなかった。12月に帝拳ジムでプロ選手とのスパーリングを行った際も、両軸どころか右腕のパンチが全く繰り出せない状態だった。清水のバランスは完全に狂っていた。
 だが、清水に転機が訪れた、全日本選手権で敗退し、一時はオリンピックを諦めかけた中で、日本アマチュアボクシング連盟が、オリンピック予選となるアジア選手権の代表選考会を開くことになり、全日本では3位であったが、それまでの実績が評価され清水にも出場のチャンスが与えられた。おそらく全日本敗退の屈辱が清水のスイッチを入れたのかも知れない。清水のバランスの感覚が年が明けた1月頃から戻り始めた。この選考会では、全日本選手権の清水とは別人のような戦いをして圧勝。清水は再びオリンピック挑戦への切符を手に入れた。この代表選考会を契機に調子は上がっていく。そして、4月カザフスタンで行われたオリンピック予選アジア選手権では、1回戦台湾のチュン・ユアン・カオ選手を26対14で勝利すると、2回戦でまさにテポドン騒動で大騒ぎだった北朝鮮のキム・ミョン・イル選手に23対10で大勝。準決勝は敗れたもの3位となり、オリンピック出場権を勝ち取った。だが、課題もあった。準決勝の相手はインドのシバ・タパ選手。シバ選手はボクシング・ワールドシリーズに出場しプロ化の洗礼を受けた選手。シバ選手は清水が1発放ち、次のパンチを繰り出す前にコンビネーションを浴びせ、手数を稼ぎ、清水を圧倒する。清水はリーチの長い選手であるため、連打の間隔は遅くなる。速いコンビネーションを持った選手にはどうしても攻めあぐねてしまう。清水がオリンピックで活躍するためにはこのような選手にどう対応するのか対策を考えなければならなかった。コンビネーションで攻める選手の弱点は、相手より運動量が多い分、スタミナが問題になる。相手を動き回らせ、体力を消耗させ、相手が弱って来た時に十分な攻撃ができる力を持つ、これが一つの答えだった。そしてもう一つがプロ化した世界の強豪を倒すためには、ポイントを稼ぐだけでなく相手によりダメージを与える破壊力を持つこと。これが、清水がオリンピックで活躍するための鍵だった。しかし、普段感覚を大事にするあまり、筋力トレーニング的な練習にあまり熱心ではない清水がたった3ヶ月でそれを身につけるのは大変なことだった。
 しかし、ロンドンオリンピック代表になると周りの状況が一変した。北京に出場したとはいえ、北京オリンピックが終わった後は忘れ去られたような状態だったのが、地元は熱烈に歓迎し、マスコミの取材は殺到した。清水は地元や自衛隊の壮行会やマスコミのインタビューのたびにメダルを目指すと答え、徐々に本当にメダルを獲得しなければならない状況になっていった。練習も、いつも自分のペースでゆっくりできていたものが、連日の取材や撮影のために無理をしたハイペースな練習をしなければならなくなり、いつもの何倍も負荷がかかった練習が続いた。そうした状況が続く中、清水に変化が現れた。清水の肉体が見る見るうちに逞しくなっていった。清水はもともと心肺能力に優れる選手だったが、連日の無理なハイペースな練習が清水をいつの間にか強化させていたのだ。スポーツ選手の取材は、選手によっては足かせになり、マイナスになる事もある。だが、この連日押し掛けて来た取材陣は殆どが清水の地元岡山県の媒体であり、清水を心の底から応援したいという情熱に溢れていた。清水にはそれが分かっていたので、どんな無理な注文にも応じた。清水のやる気に火がついていた。清水のスイッチは1月のアジア選手権選考会から入りっぱなしの状態だった。それが清水の心肺能力とパワーを著しく向上させた。
 そして清水はロンドンオリンピックに絶好調で臨むことができた。清水の最初の試合は7月28日であったが、あえて開会式にも出席していた。次の日に試合を控えている選手が開会式に出るのは、初出場ならともかく、2度目の選手では異例だ。だが、清水はあえて開会式の行進に参加した。清水が北京オリンピックの後、プロの誘いを断りアマチュアにこだわる契機となったのが、北京オリンピックの閉会式で見たオリンピックの持つ華やかな世界だった。清水は再びこの華やかな世界に戻って来たのだ。清水は開会式の入場行進を歩きつつ再び自分のいるべき場所を確認していたのかも知れない。
 
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第48話
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