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東京パラリンピック卓球金メダリスト=全盲=竹内 昌彦先生の生き様を映画化しイジメ社会に物申す! 『あの日、あの時』を映画化したい!

 
 
みなさま
 
こんばんは
 
今日のお昼前に友人から電話があり、「山陽新聞感謝デー さん太マルシェ」に行かない
 
それは何
 
何もわからないまま、やって来ました山陽新聞社本社
 
ここには友人がお勤めしているので~ランチを共にしました
 
すると、今日の講演会を聞きに来ないと誘われました
 
誰の
 
竹内正彦
 
三原色にとって初めて聞く名前
 
何の目的もなく踏み入ったさん太ホールでの講演会
 
始まったばかりの模様です
先程買ったハーブをもう少し買いたかったし、入ったらすぐに帰ってもいいからと言われていたし・・・
 

 
そんな三原色でありましたが、会場に入るやいなや~
 

 
彼のテンポよく笑い有り涙有りの軽快なお話に惹き込まれ、終わりの時間があっという間にやって来ました
 
そして、彼の自叙伝である『あの日、あの時』の映画化に協力したいと強く思いました
 
本も欲しい
 
本の表紙には彼が全盲になる前(小学1年生頃)に描いた絵で飾られていた事もあります
 

 
映画化実行委員会
 
私たちの敬愛する竹内先生の生き様を映画化し、一人でも多くの人に感動を与え、人生の道しるべにしてもらえたらどんなに素晴らしいだろう。そんな思いを、本気で叶えるために実行委員会は組織されました。盲目というハンディを背負いながら、自身の夢を実現すべくひたむきな活動を続けてこられている先生の功績は、偉業であり決して私たちが真似のできるものではありません。その貴重な人生に出会って私たちの夢が生まれました。先生がご自身の夢の実現に人生をかけられているように、私たちも先生の映画化を実現し、全国の人に知らしめることこそが使命だと信じ活動します。

今日の会場~山陽新聞社20階の食堂から自宅方面を眺めるとこんな感じ

 
 
さて、今日入手した本2冊
ただ今、長女が音読中~あまりの面白さに爆笑しながらね~そして涙を流しながら

 
いかがです
この可愛くって素敵な作品たち
 
内容も素晴らしい
 
是非とも読んでくださいね

 
 
 
昭和二十年二月十七日、竹内昌彦は父の赴任先である中国天津で生まれた。その僅か半年後、終戦の日を境に、天津の日本人の生活は一変した。許された最低限の荷物を持って、日本に引き揚げることになった一家は、遠い道のりを無事港へとたどり着いた。何も知らぬまま日本行きの船に乗せられた産まれたばかりの赤ん坊はこのとき、栄養も薬も無い船の上で肺炎の高熱に襲われた「この子は助からん。死んだら日本海に捨てるしかないだろう。」乗り合わせた医者に、ここまで言わしめた昌彦だったが、奇跡的に助かる。
 5年後まず右目に重大な病気の爪痕が露呈する。「ひんがら目のちび」同級生のいじめが始まった。
父の転勤で矢掛町から岡山市へ転校したあともいじめは続いた。しかし、昌彦の昌彦たる所以。彼は“心も身体も強かった”消火器の泡、砂場の砂、あらゆるものを味方につけ、いじめに立ち向かった

 そんな竹内を人との出逢いが変えてゆく。恩師、島村先生は、この時代からすでに、障害者を自発的にいたわろうとする気持ちをクラスに根付かせていった。
 1953年、完全失明の兆候が忍び寄っていた。大学病院で母は言った。「私たちの親の目を、一つこの子に分けてやるわけにはいかんのんですか。」完全に視力を失った昌彦は盲学校へ。
 「オール5」を取った昌彦に担任の先生が言った言葉が、彼のその後の人生の指標となる。「あなたは自分の成績だけが良かったらいいと思っているでしょう。勉強がようわからんで困っている友達に親切に教えてあげられるようになったとき、あなたの『5』は本物になるんよ。」
 「目が見えんのじゃから体ぐれえは丈夫に作っとかにゃあいけまあが。」父は近郊の山登りで徹底的に彼を鍛える。目は見えないが、頑強な精神と、肉体を併せ持つ若者がこうして誕生した。
 昭和39年、東京パラリンピックの選手に選ばれた昌彦。当時の岡山駅に関係者が集まった。発車のベルが鳴り終り、列車は動き出す。ふだん大人しい父が、いきなり大きな声で「竹内昌彦、バンザ~イ!バンザ~イ!」それはやがて大合唱に広がった。「竹内昌彦、バンザ~イ!」誰もが悟った。その万歳こそは、全盲の我が子をここまで立派に育て上げた、父の勝利宣言だった。
 文字通り、昌彦の旅はここから始まる。しかし、それは苦難との戦いの連続。親の反対を乗り越えての結婚。盲学校の教師として経験してゆく感動や挫折。それらは大きなうねりとなって「夢の実現」へと彼を導いてゆく。知れば知るほど、この波乱万丈の物語は、単なる視覚障害者のサクセスストーリーなどという範疇では語りきれない。
 

竹内昌彦 略歴http://haikei-takeuchi.jp/profile/より

昭和20年2月